wayside
某処某人09



韓国・ソウル








◆退廃理髪店◆

髪を切るというのは官能的な行為だよなあと、『髪結いの亭主』を見るに及ばずとも、つねづね感じることがある。
初秋の韓国を訪ねた。
カメラと着替えと、一夜漬けのハングル語を携えて、飛行機に文字どおり飛び乗るようにしてやって来た隣国で、そんなことを思うともなしに感じていた。
異国の風と言葉の中に身を置き、何も考えずぶらぶらと路地を歩きたい----まあ、格好よく言えばそんな動機だったのだが、実のところは、韓国通でハングルぺらぺらの農業ジャーナリストA山H子さんの訪韓に、一方的に同行させていただいたワケである。
「韓国には、退廃理髪店というのがあるらしいんですよ」
仁川空港からソウル市内に向かうバスの中で、軽い雑談のつもりだったのだろう、A山さんがそんな話をした。
退廃理髪店----?
何ともあやしげかつ魅力的、想像力をかきたてるその言葉に、僕は飛びついた。
聞けば、日本人の新聞記者が家族旅行で韓国を訪れたときのこと。奥さんと子どもが買い物に出かけている間、その人は髪を切ろうと思った。ホテルの中にある理髪店に入り、髪を切って恐らくは髭も剃ってもらい、気分もすっきりしたところ----突然、店の奥からうら若き乙女が現れて、膝の上に乗っかってきたというのである。
何事かと仰天している間に、買い物を終えた奥方が「あなたー終わったー?」と言いながら店に入ってきて、「い、いや、まだこれから……」と答えたのかどうか、それ以後、家族仲がどうなったのか、その辺のオチは知らないのだが、何でも韓国の理髪店の中にはそういうサービスを提供する店があるのだという。交渉成立となれば、奥の別室へどうぞというわけだ。
面白い、と思った。
かねてから、髪を切る行為は官能的だと言い張って、誰にも共感を得られずにいた自分の論理を、まさに実証するケーススタディではないか。
韓国の新聞の論説委員を務めるチェさんに本当なのかと聞いてみたら、「自分は行ったことがないがノノ」と前置きした上で(大変に真面目な方なのである)、何と韓国の理髪店の4割は退廃じゃないか、という。
びっくりしてしまった。
それにしても、である。
この退廃理髪店、基本的にはもぐりの商売(というかサービス)なので、表の看板に「退廃」とか書いてあるはずもない。じゃあ客はどうやって4割の方と6割の方を区別して行くのだろう? チェさんが言うには、奥まった通りにある小さな理髪店は大概そうだろうということなのだった。
そこで翌日、ソウルの路地裏を散策しながら、退廃理髪店を探すことにした。


◆路地裏ソウル◆

地下鉄1号線の鐘閣駅から東大門で4号線に乗り換え、弥阿という駅に降りた。
大学の研究機関らしき建物が軒を連ねる地区のようで、大通りは一見こぎれいでフツーなのだが、一本裏道に入ると、温泉マークがついたモーテルが立ち並ぶ路地が続いていて、好奇心がむくむくと沸き上がるのである(ちなみに韓国のモーテルは、日本のような連れ込み宿オンリーではなく、安価な宿泊施設としても重宝されている)。
裏通りをぶらぶらと歩いていると、日本の理髪店にもよくある、赤と青と白のくるくる回るやつが、そこかしこにある。
確かにその数、普通の理髪店にしては異常なほどに多く、50メートル歩くごとに1つ、2つ、3つといった具合なのである。
これはよっぽど韓国の人が散髪好きなのか、それともやはり退廃理髪店なのか----僕は1軒の店の中を覗いてみることにした。
くるくる回る店灯の横、暗くて細長い階段が地下へと伸びていた。
そもそも、理髪店が地下にあるということ自体、不可思議なのだが、2階にある店でも窓が木の板できっちり囲ってあったり、そういうところがやたらと多い。
薄暗い階段の中、消火栓の赤い光が足元をかろうじて照らし出していて、突き当たりの踊り場にも、明らかに場違いな感じで赤と青と白の床屋マークがくるくる回っている。
いかにも不釣り合いなのである。
踊り場を曲がってさらに下へ降りれば、店の入り口になっているのだが、その雰囲気たるや、まるでニューヨークのダウンタウンにあるヤバイ店に間違って足を踏み入れてしまった時のような、昼日向にも関わらず、真夜中のような空気と匂いが漂っていて、僕は進むべきか戻るべきか躊躇した。
引きずりこまれたら、命まではまあ取られないにしても、有り金は全部置いていかないと帰れなさそうだし、客のフリで入ったとしても、やっつけのハングル語では日本人バレバレで、法外な金額をぼったくられるのは目に見えている。
何より僕は、途方もなく小心者なのだ。
引き返そう。
後ろを振り向いたとたん、階段を降りてきた2人連れの男とぶつかりそうになった。慌てて横によけて、刺すような視線を背中と首筋に感じながら、平然を装って何とか階段を上りきった。
表に出た。
ほうっと一息ついて、歩き出そうとしたその時----。
「アジョシ!」
背後からドスの効いた男の声が追いかけてきた。
ヤバイ、と思った。
緊張のあまり、うなじのあたりがピリピリした。
何事もない顔で歩き続ける。
「アジョシ! アジョシ!」
無視していれば諦めるだろうと思い、素知らぬ顔で歩くのだが、関節がこわばって思うように進まない感じがする。
「アジョシ! アジョシ!」
周りの連中も何事かとこっちを見ている。
この辺は明らかに相手の縄張りだ。走って逃げるのもうまくいきそうにない。
覚悟を決めて立ち止まった。
精一杯すっとぼけた顔で振り向いた。
Tシャツにゴムパン姿の太った角刈りの男が、ものすごい剣幕で近づいてきた。
「おい、お前!」(わからないがたぶんそう言っている。以下同じ)
「はい?」
「お前、何やってたんだ!」
「はい?」
「何やってたって言ってんだよ!」
「わかりません」
「わかんねえってこたねえだろ!」
「はい」
「何やってたんだ!」
「いや、わかりません」
「あぁ?」
「わからないんです、ハングル語」
「何だと?」
「わからないんです、すいません」
男は無言で、頭のてっぺんからつま先まで僕をひとしきり睨み回した。
「どっから来た?」
「はい?」
「どこから来たっつってんだよ!」
「私は日本からやって来ました」
(『すぐできる韓国語会話』で、このフレーズだけはきっちり覚えておいた)
背骨に沿って、冷たい汗がパンツに流れ落ちるのがわかった。
男の視線を受けとめながら、ついでにもう一つ暗記しておいた「お会いできて光栄です」も言ってみようかと思ったその時、男は目玉をぐるりと回して、大げさに溜息をついた。それから背を向け、スタスタと歩き去ってしまった。
----口ほどにもないヤツめ、と僕も背を向け、だぁっと一目散に駆け出したい衝動を必死にこらえて、地下鉄の駅に向かった。
後で聞いた話なのだが、今、韓国ではこうした退廃理髪店や退廃浴場(というのもあるらしい)の取り締まりが強化されているのだという。恐らくは僕を追いかけてきた男も、僕のことをタレコミ屋か何かと思ったのだろう。
韓国のメディアは、事件などで逮捕された人間の顔を徹底的に映す。取り調べを受けているところまで、とことん流す。もし僕がその理髪店に客のフリで入って、一斉検挙でも受けた日には、それこそエライ目に遭うところだった。
それにしても----。
「アジョシ! アジョシ!」
背後から何度も何度も追いかけてきた男のダミ声は、しばらく耳から離れそうにない。
一体どういう意味なのだろうかと、後で聞いてみたら、
「おっさん」
 ……ということだそうだ。
何だかこっちの方がショックである。
(2002年10月14日発行『某処某人9』より


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