wayside
某処某人07



徳島県鳴門市







◇サツマイモの教え◇

草の匂いがした。
読みかけの本から顔を上げ、辺りを見回した。
JR中央線に乗っていて、その匂いは何の前触れもなく不意に鼻をついた。
くたびれて不機嫌な顔をしたサラリーマンとか、ものすごい速さでケータイを押しまくっている女子高生とか、丸めた週刊誌が入りそうなくらい大口を開けて寝ているおじさんとか、そんな車中の風景はいつもと何ら変わらなくて、僕の鼻先をほんの一瞬通り抜けた緑は、もう消えていた。
無性に旅に出たくなった。
こんな時、荷物をまとめて書き置きも残さず、太平洋を越えてブエノスアイレスあたりにでも飛んでしまえたら格好いいのだけれど、とりあえず僕は企画書を提出して、瀬戸内海を越えて鳴門に行くことにした。
鳴門といえば、うずしおと鯛、そして鳴門金時である。
でも、この時期の鯛はうまくないらしいし、回る洗濯機の中を見ているだけでも1日中飽きない僕としては、うずしおにもかなり惹かれる思いはあるけれど、それじゃ仕事にならないので、鳴門金時の畑に向かった。
一面、360度の芋畑である。
海岸線に沿った防波堤を境に、左が海で右が芋(そういえば海と芋は語呂が似ていなくもない)。
大パノラマの芋畑はさながら緑の海原で、芋堀り機に取り付けられた日除けのパラソルが、ヨットみたいにあちこちに浮かんでいた。
何百メートルも伸びる防波堤が、青と緑の海原をきれいに左右に隔てていた。
むせ返るような青葉の匂いかと思いきや、ほとんど草の匂いはしないのだった。
そりゃそうだ、こんな緑のただ中じゃ、ガソリンとか香水とか、そういう匂いの方が鼻につくのだろう。
海風と、入道雲と、かまびすしい蝉の鳴き声と、そして靴の下の柔らかい砂。
この砂の下に、ごろごろとした芋が何千、いやもしかしたら何万個と埋まっているのかと思うと、この大地そのものに意志というか、鼓動のようなものを感じられる気がした。

サツマイモというのは、野菜の中では「嗜好品」に属するのだという。
確かに、それなしではいられないような「必需品」ではない。
でも、だからこそ、うまいもの、最上の品質のものが求められるのだと、ジャガイモみたいな顔をしたサツマイモ農家のおじさんが言った。
僕は不思議な既視感を覚えた。
というのも、この街に来る前日の夜、僕は眠れなくて、ぼんやりと「必需品と嗜好品」というよくわからないことについて、考えるともなしに考えていたのだ。
そのいきさつをくどくどと言うつもりはないけれど、要するに自分という人間が、ある人や物事において必需のものになりたいと強く願っても、結局は嗜好のものというか、取捨選択できるものの一つにしかなれないのだよなあと、そんなことをつらつらと考えていた。で、意味もなくちょっと沈んだ気持ちになったりもした。
一面の芋畑につっ立って、大地からずぼっずぼっと引き抜かれ、ごろんと転がる芋を見下ろして、
「おい、芋よ、お前は嗜好品なんだそうだ。満足かそれで」
と訊ねたら、
嗜好のものこそ上等であれ
そう教えられた。 

◇芸術の存在理由◇

食べ物とか着る物、住む場所、医療ムムもっと色々あるけれど、とにかく人が生きていく上で欠くべからざるものに携わる仕事というのは、すごいと思う。
一方、雑誌とかテレビとか新聞とか、いわゆるメディアというやつは、別になくったって生きていくことができる。いわばこれも嗜好品のようなものだ。
できることなら、人が人として生きていくために必要不可欠なメディアというものを作ってみたいと強く思うけれど、僕の知っている限り、そういうものは皆無に等しい。
アート、芸術と呼ばれるものも、そういうものだと思っていた。
鳴門市からの帰路、愛媛県の松山市に立ち寄った。三浦美術館というところで、ルーシー・リーの作品展が開催されていて、ものすごくいいからぜひ見ていけ、と写真家の早田均さんに言われてのことだった。
写真は見るのも撮るのも大好きだけれど、書画となると関心の焦点をどこに持っていったらいいのかよくわからないことが多くて、僕にはちょっと難しい。
それが陶芸となるとなおのことで、使うものと鑑賞するものとしての目線の線引きがうまくできないのか、とにかく僕には遠い。
ルーシー・リーという人は1902年にウィーンに生まれた女性陶芸家で、その作品ときたら、早田さんが言うには「涙が出るほど素晴らしい」のだそうである。
でも、もともと僕は芸術に造詣の深い人間ではないと思うから、きっと何のこっちゃわからないのだろうけれど、まあ美術館という空間は嫌いじゃないので、とりあえず立ち寄ることにした。
一時間後------。
僕はものすごく打ちのめされて、美術館から出てきた。
言葉や文字というものの非力さ、無力さというものが体全体を貫いて、身動きができないような気分だった。
だから、ルーシー・リーの美しさとかすごさとか、そういうことをここで語るなんて到底できっこない。
ただ一つの考察を除いては。
美術館の一番奥に、1個の真っ白い花器があった。
トランペットのように大きく開いた口から、細くて長い華奢な首がすうっと落ち、胴体がふうわりと広がったフォルムの花生だった。
僕はその美術館にいた3分の2くらいの時間、その器の前にいた。
ああ、これは人だなあ
そう思った。
その花生はルーシー・リー自身であり、それを見ている僕であり、全ての人間そのものにも見えた。 
そして僕は以前、ある人から言われた言葉を思い出した。
あなたを見ていると、1つの壺を思い出す。一見、間口が広くて中まで見えてしまいそうな気がするけど、実はその先は細長く暗くて、決して奥まで見えない。でも、その下にはきっととても深くて広い空間がある」
その人は神楽坂の喫茶店で、僕の向かいの席に座り、宙にそのフォルムを指で描いてみせながら、そう言った。
それは僕だけじゃなくて、きっと全ての人に当てはまることなのだと、あの時・あの場から遠く離れたこの四国の地で、ルーシー・リーの1つの花生を見て、僕はやっとわかった。
そして、芸術というものがこの惑星になぜ必要なのかということも、ほんの少しだけわかったような気がした。
(2002年8月12日発行『某処某人7』より
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