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〜転轍機を探して〜
02

〈2007年11月〉


Illustration by NURI

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11月9日(金)

 朝から家で、知り合いの写真家・N氏の写真集を探す。昨日の面接の帰り際、ミスターDこと大手広告代理店の局長と雑談をしていた時に、その人の名前が挙がった。クライアントC社のカレンダー撮影を数年前に担当しことのある人物だ。
 面接の直前、僕は何かの時のために話題になるようなネタを仕込んでおこうと、C社に関して色々調べていた。そこでたまたま見つけたのが、その人の名前だった。
 ミスターDは相当の写真好きとみえて、僕達は互いに好きな写真家の話などで結構盛り上がった。その時何気なく僕が、
「以前C社のカレンダーを撮影された○○さん、ご存じですか」
 と話を振ってみたところ、
「ああ知ってる知ってる。彼が出した○○って写真集がすごく欲しかったんだけど、買いそびれちゃって、今もう絶版で手に入らないんだよねえ......」
(しめたっ)
「持ってますよ僕」
「ウソッ?」
 偶然にも、その写真集をプロデュースしたのは、他でもない僕だった。古き良き日本の農村風景の写真をまとめた、非常に良い写真集だったが、いかんせん売れなかった。発売前からそれはわかっていたけれど、案の定一刷で絶版。書店でもネットでも手に入らない幻の本になってしまった。僕はプロデューサーという立場上、数冊寄贈してもらっており、自宅の本棚の肥やしになっていた。D氏にそのことを告げると、大喜び。
「たぶんどこかにあると思うので、見つけたら送ります」と、約束して、その場を後にした。
 ところが----。帰ってからあちこち探したが、見つからない。そもそも僕は、探し物が人一倍下手な人間である。
 ミスターDは楽しみに待っているだろうか......いや、とうに忘れているか。
 だけどそれは関係ない。
「送ります」と言って「やっぱりありませんでした」は最悪だ。自分から言い出したことではあるけれど、しかしこういう些細なところで「何か」が試されるような気がした。
 僕は版元の編集者に電話をし、写真集の在庫があったら譲ってほしい旨を告げた。
「たぶん編集部のどこかに1冊くらいあると思うので送りますよ」
 彼はそう言ってくれたものの、数分後に再びかかってきて、
「スイマセン、ありませんでした」
 ほらね、こういう展開はやっぱりガッカリさせられる。
 僕は仕事帰りにその版元に立ち寄り、無理矢理お願いして倉庫を見せてもらった。返本された書籍の墓場、埃っぽくて薄暗い倉庫の中の裁断を待つ本の山の片隅に、奇跡的に目当ての写真集を一冊だけ見つけた。編集者に礼を言い、今度夕食をご馳走することを約束して、譲り受ける。
 一体何に対してムキになっているのか自分でもよくわからなかったけれど、一冊の写真集を胸に、僕は妙な満足感を抱いて家路についた。


11月10日(土)

 昨日ゲットした幻の写真集をP社のA氏宛に送る。D社に直接送っても良いが、こういう場合、間に入っているP社の頭越しにやりとりをするのはマズいだろうと配慮し、A氏からD氏に渡してもらうことに。
 D氏、A氏それぞれ宛の手紙を書いて同封。元々僕は手紙を書くのが苦じゃない性格なので、こういう時には強い。作文が苦手な人、嫌いな人というのは世の中にたくさんいる。この業界ですら、そう公言してはばからない人がいる。


11月12日(月)

 A氏よりメール。
「この間はわけもわからないまま会ってもらいましたが、ありがとうございました。急な段取りにも関わらず、大変良い印象だったと思います。またご連絡いたします。写真集は今日届きました。これからD社に行くので、渡しておきます」
 確かに先日の面談は急で、準備はほとんどできなかったし、ごまかしもきかなかった。それが狙いなのかもしれないけれど。


11月13日(火)

 仕事中にA氏より電話。
「昨日D社に写真集を届けてきたけど、この間の面談すごく好感触だったみたい。『今のところ最有力候補だ』って言っていたよ」
 そう告げるA氏は、すこぶる嬉しそう。そりゃそうだろう、クライアントC社の委託を受けた代理店D社では、P社以外にも多数のプロダクションに声をかけているに違いない。これは一種のコンペのようなもので、P社にしてみれば僕という人材を切り札にこのコンペに臨んでいるわけで、この仕事を獲得できれば、年間2億円近い新規事業を獲得することになる。
「写真集もすごく喜んでたよ。あなたの手紙を読みながら、『そうだよなぁ......これも縁だよなぁ』って言ってた」
 ここは狙い通り。僕は手紙の中に、読んだ人が無意識にそう感じてしまうようなフレーズを忍ばせておいた。いわばサブリミナル効果みたいなもの。言葉というのは武器である。
 具体的な事項について打ち合わせをしたいとのことで、19日に再びP社を訪問することに。すでに3度目なので道に迷う心配もないと安心していたら、「今度は新富町ビルの方で」とA氏。
 新富町って......どこ??



11月14日(水)

 一連の動きの中で、僕にはどうしても気になっていることがあった。それは、C社がどうして現在の制作プロダクションにこの仕事を依頼しないのか、ということ。初めてP社を訪問した時、僕はそれをA氏に訊ねた。その時A氏がちらりとこぼしたのは、
「どうも今のプロダクションを切りたいみたいなんだよね」
 それが単にクライアントの気まぐれなのか、あるいは制作サイドに何らかの問題があるのか----僕はそこが気になっていた。つまり、現在の制作が抱えている問題点を洗い出すことができれば、そこを積極的にクリアすることでクライアントの信頼を得られる。
 そこで、現在その雑誌の制作を担当しているプロダクションについて調べてみることにした。たまたま知り合いの写真家がその雑誌の最新号で紹介されていたため、早速その人に電話を入れ、編集部の態勢や状況などについてさりげなく訊ねる。
 さらに、僕の写真の師匠であり、カメラ業界や写真雑誌の内情にも詳しいT氏と連絡を取り、様々な業界内部の情報を得る。


11月16日(金)

 今回の件で、初期の段階から情報収集に協力してくれているのがカメラマンのK氏だ。毎月一緒に取材に行っている人だが、理系らしい冷静な分析力には格別の信頼を置いている。
 このK氏の友人の知り合いが、僕が今リサーチ中のプロダクションでかつてアルバイトをしていたことが判明。これは驚きのつながりだった。K氏は早速その人と連絡を取り、プロダクションの内実や制作現場の生々しい情報を仕入れてきてくれた。まさしく値千金、知っていると知らないとでは、今後の動きに大きな差が生じる貴重な情報である。


11月19日(月)

 20時、P社・新富町ビル待ち合わせ。迷わないよう、今回もちゃんと地図を送ってもらった。
「新富町の方は、銀座ビルよりもわかりやすい場所にありますから大丈夫ですよ♪」と、僕の「触覚の折れた虫」っぷりをすっかり把握している様子のP社秘書氏。
 地図を片手に新富町駅の改札を意気揚々と抜けた僕は、しかし地上に出たとたん、途方に暮れた。暗い。目印となる店やオフィスの灯りがことごとく消えていて、全っ然わからん。
 駅から徒歩五分のそのビルを3度通り過ぎてようやく見つけ、到着したのは19時59分。さぞ「時間にきっちりしている奴」と思われているに違いない......。
 新富町ビルはP社のメインオフィスで、銀座ビルよりもでかい。時間も時間のため、すっかりくつろいだ様子のA氏が下まで出迎えてくれた。オフィスでは二〇人近いデザイナーが、それぞれのブースでまだ作業をしている。コピーライター、デザイナー、アートディレクターなど、総勢五〇人以上のスタッフを抱えるP社の全貌が、ようやく垣間見れた気がする。
 会議室に通され、他の取締役との名刺交換もそこそこに、早速打ち合わせが始まった。
 僕を雇用するということについては、社長以下取締役全員一致で賛成とのこと。肝心のギャランティーについては、僕自身どのように提示すれば嫌味がないものか、かなり迷ったりしたのだが、その辺の複雑な心情も含めて正直に希望額を打診してみたところ、「ああ、全然大丈夫です」と一発OK。この会社、かなり儲かっていると見た。 
 その後、現在C社から制作を受注しているプロダクションについて訊ねてみると、P社サイドはほとんど有益な情報を持っていないことが判明。結局僕が仕入れてきた情報が一番精度が高かった。
「それにしてもあなた、色々知ってるねー」
「いやまあ......ところでリニューアル号はいつですか?」
 本来、この点を一番はっきりさせておかなければならないところなのだが、
「Dが確定しない」、「Cがはっきりしない」と、代理店やクライアントの動きについて、今ひとつ正確に把握しきれていない様子。
 確かに、D社はまだ候補者の最終選定を終えていないようだし、それが決まったところで、C社に伝えて了承を得て、そこからようやくプロジェクトはスタートする。
 しかし時すでに11月も下旬になろうというのに、この動きは明らかに出遅れている。
「たとえば4月号リニューアルとしても、3月初旬には入稿しなければなりませんから、1月から始めるにしても、2ヶ月しかありませんよ。これはかなりリスキーだと思うんですが......」
 順調に業務の引き継ぎがなされたとしても、リニューアル準備期間が2ヶ月しかないというのは、かなりハードスケジュールだ。また、現在の制作プロダクションにしてみれば、自分達の仕事を奪われることになるわけで、そこには様々な妨害工作も予想される。とても穏当な引き継ぎがなされるとは思えない。そのことを告げると、
「そうだよねえ......」
 そう言ったきり、P社首脳陣は考え込んでしまった。
「まあ安全策としては、現在の制作スタッフを一人引き抜くことでしょうね。現場をやっていた人間が一人いれば、かなり安心して臨めるとは思います」
 そう提案してみたものの、正直自分で言っておきながらこの案には懸念があった。カメラマンK氏からの情報で、現プロダクションの内実をそれなりに把握していたので、その質はある程度わかっていたし、現在の誌面を見る限りでも、決して優秀なスタッフがいるとは思えないからだ。
 とりあえずそんな感じで、スタッフ体制、制作予算、広告収入、連載企画、台割構成など、12時近くまでかけて打ち合わせを続けたものの、プロジェクトそのものがまだ正式スタートしていないものだから、今一つ話を詰めきれない。僕はひどく消化不良だった。


 いい加減くたびれて集中力が途切れてきた頃、A氏が
「何か食べに行こうか。食べたいものある?」
 しかしまさかこんな時間に「海老マヨ」とも答えられないので、「何でもいいです」と言うと、
「じゃ、寿司でも食おうか」というわけで、新富町からわりと近い築地に向かう。こんな時間に寿司屋なんかやってんのかよと思ったが、さすがは築地、24時間営業である。
 しかし生魚にそれほど興味がない僕としては、カウンターで注文する寿司は辛い。しかも初めての相手と一緒で、かつそれが目上の人となればなおのこと。ウニ、大トロ、イクラとか言えないわけで、「しめさば」とか「えんがわ」とか「穴子」とか、微妙なネタをポツポツと頼む。
 ビールを飲み、寿司をつまみながら、僕はA氏に訊ねた。
「あの、最初にお会いした時、わりと早い段階で『ぜひ頼みたい』とおっしゃいましたよね。あれってどうしてですか? どこの馬の骨かもわからないのに......」
 A氏の返答は、まずS氏からの紹介という時点で特大の信用証明を得ていたこと。そしてもう一つは、
「あの時あなたは、『もしもC社のPR誌の仕事が1、2年で終わったらどうするんだ』と聞いたよね」
 確かにそれは最も気になっていたことだった。
 P社はあくまでデザインオフィス。新たに編集部門を立ち上げるといっても、とりあえず現状はC社のPR誌の仕事しかないわけで、その受注が永久に続くと考えるほど、僕もウブじゃない。そうなった時、「編集者」として雇われた僕は仕事がなくなるわけで、会社にとってお荷物以外の何物でもない。面接の時、僕はそこを訊ねたのだった。
「何人もの編集者と会ったけど、そこをきちんと訊いてきた人はあなただけだったんだよ。他の人はたぶん、『駄目になったらまた他を探せばいいや』という感覚だったんだと思う。オレはね、一〇〇%の力を持つ外部スタッフよりも、たとえ八〇%の能力でもいいから、中に入ってずっと一緒にやってくれる人と仕事をする方が、絶対にいいと思うんだ」
 焼酎のグラスを傾けながら、A氏はそう言った。それから慌てて、
「あ、これはあなたが八〇%の人だって言っているんじゃないよ! あなたはうちにとって本当に、宝の山を見つけたようなものだってみんなで言ってるんだ、本当に」
 それは、広告業界に生きている人らしくない----といったら偏見があるけれど、やけに実直な言葉に聞こえた。そういえば今回、この話を紹介してくれた僕の恩師であるS氏も、旧友であるというA氏のことを「すげーいい奴」、「コマーシャルの世界にいながら、何が正しいことなのかかちゃんとわかっている稀少な人間」と評していた。
 僕達はそれからしばらく、寿司をつまみながら取りとめのない会話を交わした。築地の寿司は、さすがに旨かった。


11月24日(土)

 愛媛在住の写真家H氏と、三日間長崎県の福江島で取材。H氏は僕の周囲にいる数少ないC社カメラユーザーでもあり、また広告業界の事情にも詳しいため、当初から色々相談に乗ってもらっている。ご本人としては、僕とのフィールドワークがなくなることに対して遺憾の様子だが、それでも貴重な助言を数多くいただく。
 ちなみに福江島の取材は近年まれに見るほど面白いネタだったので、お楽しみに。
 さて、長崎から帰るとすぐに企画書作成開始。C社PR誌であるその媒体は会員制の月刊誌で、読者層は、「ハイアマチュア」と呼ばれる50代以降のアマチュアカメラマンである。会社などを定年退職し、年金をもらい、金も時間もある、いわゆる団塊世代。厄介な層ではあるが、彼・彼女らのようなヘビーユーザーが、C社の製品ラインナップを下支えしているのは一目瞭然だ。しかしその一方で、クライアントとしては20〜30代のライトユーザー、つまり近年のデジカメブームで写真やカメラを身近に感じるようになった若いユーザー層を掘り起こしたい狙いもある。
 初めてその雑誌を見せられた時から、その構図は一目瞭然だった。従来からの読者層をきっちり捕まえておきつつ、若い読者層をいかに開拓するか----この媒体のリニューアルに際して最も留意しなければならないのは、そのバランスの取り方だろうと僕は考えていた。
 この手の二律背反するジレンマの中で雑誌を作る作業は、僕にはお手のものである。僕がいま在籍している会社のような組織内ジャーナリズムでは、常にこういうジレンマを抱えている。
 そんな観点からも、このPR誌の仕事は向いていると感じた。この手のメディアを作る上での独特のルールや暗黙の掟は、業界が違えど構造はそう変わらないものだ。僕自身、不本意ながらこういうことにすっかり精通してしまったことに加え、何より写真好きであること、本来ビジュアル系の記事作りが得意であることなど、自分以上にこの雑誌をやるのにふさわしい人間はいない、というくらいの自負はあった。
 しかも、元々僕は雑誌作りを生業としていながら、雑誌をあまり読まない人間である。が、どういわけか昔から写真雑誌だけはよく読んでいた。純粋に面白いのだ。こうした自分の嗜好も、この仕事を受けようと思った大きな理由の一つだった。
 だから、自分が読者だったらこんな記事を読みたい、こんな企画があると嬉しい----そんな読み手の目線からの企画がどんどん沸いてくる。と同時に、作り手としてやってみたい企画----たとえば全国各地を旅する取材記事など----も山のようにある。それらを単純に書き出していくだけでも、三〇以上の企画案があっという間に出来上がった。
 それぞれの内容を吟味し、精査し、わかりやすい「企画趣旨」をまとめる。さらに、クライアントの要望を先回りしてつぶしておくような「企画意図」をつける。互いに重複している要素などを整理統合し、最終的に一五本の企画に収斂させた。合わせて、表紙のデザイン案及びメイン特集のラインナップ&デザインフォーマットも作成。これらの作業に要した時間は三時間程度だった。
 この一〇数年間、毎月僕は様々な雑誌媒体合わせて、のべ最低二〇本の企画書提出を欠かさず自分に課してきた。これは新米編集者だった頃、恩師であるA編集長に叩き込まれた習性である。手紙をこまめに書くこともそうだった。あの頃反吐を吐くほど辛かった修業の数々が、ここにきて結実していることをまさに実感した三時間。
 集大成の企画書は、時間をおいてもう一度精読したのち、A氏に送信した。


11月27日(火)

 A氏よりメール。先日の面接結果、これまでの経歴、そして企画書の内容などを検討した結果、代理店D社がC社に推薦する編集者は、最終的にkosemurayasutoに決定した、とのこと。
 まあ一応喜ぶべきことなのだろうが、この段階ではまだ代理店段階のプレゼンテーションを勝ち抜いただけであって、クライアントに対するプレはこれからである。ここまで辿り着くだえでもえらく大変だったけれど、最終的にC社の承諾を得なければ白紙になるわけで、その段階でひっくり返ることだって可能性としては充分あるだろうから、どの段階で本当に喜べばいいのか、どうもよくわからない。広告業界の流れに不馴れな身としては、まだるっこしいことこの上ない。
「D社を通れば最終的に通ったようなもの」とA氏は言うのだが......僕は懐疑的だった。
 それでも早速編集部のスタッフ体制について相談を受ける。
「アートディレクター、デザイナー、編集ライターで誰かいい心当たりいない?」
 本来P社はデザインオフィスなのだから、デザイナー関係はいくらでもいるはずだと思っていたのだが、
「コマーシャルはみんなできるけど、雑誌をやれるエディトリアル系はあまりいないんだ」
 そんなものか。
「あなたならアートディレクターもやれると思うから、そういう体制でもいいけど」
 プロデューサー兼編集長兼アートディレクター? それは無理。ただでさえ、編集長ということになったらマネジメントの仕事にかなりのエネルギーを取られてしまう。何より現場で取材をしたい僕にしてみれば、そういう労力は極力減らしたい。
 そこでアートディレクターは、現在テルマの表紙周りのデザインを(ノーギャラで)やって下さっているM氏に打診。また、現場で一緒にやってくれるデザイナーは、知り合いのデザインオフィスに在籍している若手スタッフで、タイポグラフィーの上手な人に唾をつけておく。
 しかし問題は編集ライターだった。雑誌のボリュームから考えて、アシスタント以外の常駐スタッフは僕以外は一人いれば充分。となると、タッグを組んでやってくれるフットワークの軽い、かつ書けるスタッフが必要だ。が、あいにく僕が付き合いのあるライターは、ほとんど四〇代以降で、どちらかというと「大御所」に属する人ばかり。
 まだ正式なプロジェクトゴーサインすら出ていない段階にも関わらず、スタッフを捜し回らなければならない羽目になった僕は、内心「これでコケたら大恥だな……」との思いを、どうしても拭いきれずにいた。

〈つづく〉

(2008年1月15日発行『TALEMARKETvol.53』より)







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