Sketch Notes10
旅の雑記帳


島根県 温泉津町








 まずはその名前からしてよい。
 温泉津と書いて「ゆのつ」と読む。「湯の津」──つまりは温泉のある港(津)という名である。中国山脈を背にした谷筋にひっそりと息づく、小さくて鄙びた湯治場である。
 山陰地方を旅していると、どこに行っても温泉に出くわす。正確に調べたことはないが、二〇キロ四方に一カ所くらいはあるんじゃないかというくらい、そこかしこに点在している。
 有名どころは鳥取県米子市の皆生温泉とか、島根県松江市の玉造温泉とか。前者は日本海に面し、後者は宍道湖を望む。名所旧跡、土産物、イベントなどにも事欠かず、観光バスもよく出入りして、それなりに繁盛している。
 じゃあ温泉津は? と訊かれたら、そんなものは見たためしがない、と胸を張って答えたい。そもそも観光バスなんか通れるんだろうかと、逆に心配になったりする。
 地元の人でもあまり行かない、隠れた秘湯の里なのである。



 こじんまりとした木造旅館が建ち並ぶ目抜き通りを、浴衣姿でカラコロと、下駄を鳴らして歩いてみる。
 山あいの谷筋を走る狭い街道である。ようよう車が行き過ぎる四百メートル足らずのこの路地が、温泉津のメインストリートだ。
 軒行灯の灯りがともり、「あんま」と書かれた古びた看板が風に揺れる。
 軒を連ねるのは、明治から大正、昭和初期にかけて建てられた木造二階、三階建ての古びた旅館ばかり。その合間に、これまた古くて小さな土産物屋が点在している。 
 西に向かってしばらく歩くと、小さな港に出る。外海から深く入り込んだ、静かな入り江だ。小さな漁船が数隻停泊し、鳶が所在なく飛んでいる。
 よく言えば穏やか、より正確には寂れた風情のこの入り江も、かつては山陰地方を代表する活気溢れる港だったと聞く。
 日本でも有数の銀の採掘地であった石見銀山は、ここからほど近い。十六世紀半ば、石見銀山で採れた銀は「銀山街道」と呼ばれる山あいの筋道を通って温泉津に運ばれ、港から積み出されていった。
 江戸時代に入ると、銀の輸送は尾道(広島県)を経由するルートに変わったものの、温泉津は銀山で消費される物資の水揚げ港として大いに賑わったという。江戸時代中期以降、銀山は徐々に衰退の兆しを見せ始めるものの、北前船の寄港地として、温泉津の繁栄は続いた。米や塩、海産物など、様々な荷を載せた百石、五百石の廻船がひっきりなしに出入りし、最盛期には二十軒以上の廻船問屋があったという。
 傾いた陽が山の背に隠れると、小さな港はもう早い眠りについた。人っ子一人、仔猫一匹通らなくなった入り江に、下駄の音がうら寂しく響く。不意に出たくしゃみは、自分でもびっくりするくらい大きく、長く尾を引いた。


 春まだ遠い睦月の山陰で、浴衣にどてらの街歩きは、やにわに身を冷やす。下駄の音もせわしなく、とって返した。
 向かう先は当然「湯」である。投宿している木賃宿にも風呂はあるけれど、そこはそれ、温泉津の大衆浴場へと向かう。
 通りの中ほどに「元湯」と「薬師湯」という二つの共同浴場がある。唐破風に施された狸の彫刻は、今から千三百年前、湯に浸かって傷を癒す狸を、旅の僧が見つけたのが始まりというこの地の伝承を現している。
 古くから湯治場として名高かった温泉津は、旅人や廻船の船乗りたちも頻繁に訪れたと聞く。旅館なども少なかった昔は、ある者は廻船問屋の屋敷裏に、またある者は寺の軒下に宿を借りたという。
 大正時代に入って山陰鉄道(現在のJR山陰本線)が開通し、海運業が廃れゆく中で、温泉津は港街よりも薬効ある温泉地として広く知られるようになった。
 通りには小さな旅館が建ち並び、髪結いや芸者置屋も軒を連ねた。けれども大型の旅館やホテルが進出し浅薄な開発が行われることはついになく、それがこの街に、温泉街というよりも湯治場と呼ぶにふさわしい風情をとどめた。
 古びた洋館風の建物が眼を引く「薬師湯」は、明治五(一八七二)年の浜田地震の際に湧出したもので、「新湯」あるいは「震湯」、「なまず湯」などとも呼ばれている。
 洗面器を抱えた老人がタオルで髪を拭きながら出てきた。上気した頬が薄桃色に染まり、何とも心地よさげだ。
「こんばんわ」
「あい、こんばんわぁ」
 老人は浴衣姿の僕を見ると、 「どちらから来んさったが?」と言った。東京です、と答えると、「ほえ〜」という声なのか鼻息なのかよくわからない音を出し、「どげした?」と訊ねる。温泉治療にでも訪れたと思ったのだろう。それほどに、温泉津の湯は薬効高い。
「ここの湯はえいよぉ」
 老人は誇らしげに言う。
「昔の人は何日もかけて歩いて湯治にきよったが。そげん薬効があるけえ、噂が噂ば呼んどぉな、湯治場としてこげん人が集まるようなったに」
 なかなかどうして、温泉津の優れたスポークスマンなのである。
 温泉津の湯は、こうした薬効ある泉質を守るため、源泉をそのまま使用しているという。老人は、「にせもんの湯じゃないがに」と胸を張る。加熱したり水や湯を足すようなことをしないということだ。泉質が変化してしまうことを恐れ、ボーリングして湯量を増やすこともないという。自然に湧き出るままの、まさに百パーセント源泉かけ流しの湯なのだ。
 「温泉法」によれば、湧出口の温度が摂氏二十五度以上であれば「温泉」と認める、としている。つまり、地中深くボーリングして湯が出れば、それだけで「温泉」を名乗ることができ、薬効については特に問うていないのだ。循環システムを使って、湯を何度も再利用する宿や施設も多い。しかしそういうものは「本物の温泉じゃない」のだそうである。
 温泉津の源泉は無色透明だが、空気に触れて酸化するせいか、湯そのものは淡い茶褐色をしている。泉質はナトリウム、カルシウム、そして塩化物泉。嘗めてみるとしょっぱくて、海水のようだ。
「土ん中のええ成分が、よおけ湯の中に溶け出ちょおに。そいが自然に湧き出たもんでねえと、効果はなあがよ。じゃけ、わしらいつも湯に入る時は、自然の恵みに感謝して、ありがたいありがたい言うて入っちょおが」
 なるほど温泉とは、限りある天然資源なのである。


 
 暖簾をくぐると、地元の人たちの賑やかな話し声に包まれる。
「今日は空いちょぉに」
「川上さん、まだ来とらんが?」
 この街の共同浴場は、言うなればサロンであり、公会堂であり、風呂付き集会場なのだ。家に風呂があっても、毎日通うという人も多いという。元湯と薬師湯には薬効に若干の違いがあるようで、好みや体質、あるいはその日の体調などによって利用する湯が分かれるらしい。
「あんたどこから来んさったが?」
 季節はずれの旅人は、何処にいても眼を引くものだ。こういうところで聞く話が、取材なんかよりもいっとう面白い。メモを取れないのが難点だけれど、そこはそれ、「裸の付き合い」というものである。
「湯の花、すごいじゃろう。白いタオルもな、ずうっと使っちょるとこげなふうに黄色くなるに」
「湯から上がるときは、身体は流さんほうがえいが、顔は水で洗っちょった方がえいですよ。この湯は塩分が含まれちょぉが」
 ガイドブックには載らない話が次々に出てくる。
「毎日温泉に入っちょるけぇ、この街の年寄りはみ〜んな肌がきれいじゃ」
 誰かがそう言ったら、隣の女湯から大きな笑い声が返ってきた。
「また来ちょてください」
 番台の女将に見送られ、
「いいお湯でした」と礼を言って暖簾をくぐる。来るときはあれほど肌に痛かった冬の風が、今はやけに心地よい。
 温泉津──心と身体を癒してくれる湯治の文化が、今なお息づく街である。

(2006年2月10日発行『TALEMARKET』vol.30より)




photo & text by tokosemurayasu
Copyright:(c)2008Kosemura Editorial Office.
All Rights Reserved.