Sketch Notes05
旅の雑記帳


山口県--島根県








 まだ子供だった頃、いちばんのお気に入りは、布団に入って眠る前。空想の翼を際限なく広げる時間だった。
 そこには幾つもの世界があり、物語があり、登場人物がいて、そして僕はいつだってヒーローだった。現実の世界では到底なり得ないような。
 たとえばドッヂボールをよけるのが天才的に上手いとか、好きな女の子を守って悪漢相手に大立ち回りをするとか、挙げ句の果てには空を飛んで眼から光線を出しちゃうとか。
 そんな空想癖が、大人になった今も実はあまり変わっていないことに気づいたのは、けっこう最近のことだ。

 旅をしていて近頃は、もっぱら考え事をする時間が多い。
 山陰本線の車窓から、赤茶けた岩肌を削る日本海の荒波を眺める。中国山地を越える高速道路を走りながら、山肌にしがみつく小さな家々を眺める。
 旅をしていない時には、漠として形を為さない思考の断片が、旅の途上にあると不意に像を結ぶことがある。
 旅の愉しみというのはもしかしたら、考えるという行為そのものにある----そんな気さえする。それは、空想遊びの愉しみによく似ている。

 たとえば僕は今、レンタカーを借りて山口県の湯田温泉を発ち、広島県の山間部を抜け、島根県の温泉津温泉に向かっている(決して温泉巡りをしているわけではなく仕事です、念のため)。
 橋のたもとに車を停め、煙草を吸いながらぼんやりと田圃を眺めている。
 畦道に桜の木が一本立っていて、その後ろに小さな農作業小屋がある。出来そこないのトリックアートみたいに、ちょっと左に傾いで建っている古ぼけた小屋。うち捨てられた廃墟のようなその小屋にも、おそらくはちゃんと持ち主がいる。束の間、僕はその小屋の主について想像してみる。例えば何年も着古した野良着をまとい、毎朝そこへ通う一人の老人のことを。
 腰にぶら下げている色褪せた布袋には、たぶん軍手と鎌と数本の「リポビタンD」が入っている。毎日休むことなく田圃に通う爺ちゃんを、家族はそれぞれの思いで眺めている。「米つくったって金にならないんだから、田圃なんか売っちゃえばいいのに」役場に勤める息子はそんな風に言う。「毎日家でじっとしていられるよりは、出かけてくれた方がいいけど、野良着の洗濯が大変なのよねぇ……」嫁はそう思っている。伴侶の婆ちゃんは地域の婦人会の会長か何かを務めていて、ゲートボールとか農協の会合とかに忙しく、爺ちゃんに構う暇なし。
 六〇年近くもの間、ひたすら米を作り続けてきた寡黙な爺ちゃんは、毎朝自転車に跨って(八〇歳を過ぎてからバイクの運転は禁止されている)一人黙々とあの小屋に通っている。実直なサラリーマンが毎日狂いなく定時に出勤するように、来る日も来る日も田に通い、田の草を刈り、刈る草がなくなると畦道の草を刈り、それが終わる頃にはまた田の草を刈る。
 そんな一人の老人の人生を、僕は想像する。

 やがて煙草の吸い殻を携帯灰皿に突っ込み、立ち上がって尻の埃を叩き、僕は再び車に乗り込む。
 二車線の県道をのんびり走る。前方から小さな黄色い帽子が、歩道を連なって歩いてくる。
 通り過ぎざまに首を巡らすと、一人列から遅れて道ばたの花を眺めたりしている男の子に気づく。所在なげに歩いているようで、前を行く列をちらりちらりと窺っている。
 あの子は路傍の花になど興味がないのかもしれない。わざと歩くのを遅らせているだけかもしれない。好きな女の子でもいるのだろうか。嫌いな同級生がいるのだろうか。いじめられているのだろうか。それとも一人が好きなのだろうか(一人が好きな子----一人でいることの方が好きだと自覚できるような強い子、と言った方がよいのかもしれない----が果たして存在するのかどうか、僕にはわからないけれど)。

 黄色い帽子をバックミラーで見送ると、脇道から白い軽自動車が出てくる。ブレーキを踏み、道を譲る。運転席に座る中年女性は眉間に皺を寄せ、ひどく気難しい顔をしている。会釈もせずに強引に割り込む。車窓には小学校のグラウンド。
 前を行く軽自動車のルームミラーに映る顔を、僕は注意深く眺める。きっとあれはこの学校の先生だな。科目は----たぶん音楽だ。小さい頃からピアノを習い、その腕前を褒めそやされて音大に進んだけれど、全国から集まった音楽家の子弟達の才能を目の当たりにし、早々に断念。「教員」という合理的かつ中途半端な落としどころで音楽を続けてはいるものの、日々の仕事といったら、騒がしくて小生意気なガキをなだめすかして教科書を開かせること。夢と現実の狭間。募る苛立ち----。

 過ぎゆく景色の断片から、僕はいつもそんな風に勝手な空想をする。考えるという行為が好きなのだ。
 それはきっと、自由だから。
 自由、自由と語りたがるわりに、僕らが本当に自由を得ているものが、この世界にどれほどあるだろう。お金も物質も、時間も心も身体も----。
 とりとめのない空想旅行の途上で、僕は自由というものの本質的な不在を強く感じる。だからこそ、誰憚ることなく空想と考察の翼を広げようとする。
 それは僕らに許された、唯一の自由でもあるから。

(2005年4月29日発行『TALEMARKET』vol.22より)




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