Sketch Notes04
旅の雑記帳
山口県 秋芳洞
杉の木立を抜けると、ひんやりとした冷気が肌を刺した。 眼前に立ちはだかる岩壁に走る巨大な亀裂。そこが鍾乳洞の入り口。 東洋最大の規模を誇る秋芳洞。 観光ルートとして公開されている洞内は一・五キロメートルほどだが、その総延長は一〇キロを超えるとも言われ、いまだ発見されていない支洞も多い。 亀裂の隙間を抜けて洞窟の中に足を踏み入れると、湿気を孕んだ冷たい空気が全身にまとわりつく。 間断なく響く流水の音が幾重にも反響し、耳元でこだまする。 洞内の淡い照明を受けてぼんやりと浮かび上がる石灰岩の天井は、二〇メートルを優に超える。岩肌に不吉な影を落とす鍾乳石。人工照明が届かないそこかしこに、ぼんやりとわだかまる闇----。 口をすぼめて息を吐き出し、そうして初めて、眼前に迫る圧倒的な地底世界のスケールに、知らず呼吸を止めていたことに気づいた。 息を吐くと、耳朶の奥にこだましていた水の音がすうっと引いた。 何度か唾を呑み込む。麻痺しかけた三半規管と耳石器官が回復し、少しずつ洞内の音を聞き取れるようになった。 水の流れる音。滴が落ちる音。人々の話し声。足音。洞内のアナウンス。 立ち止まり、眼をつむり、耳を澄ます。世界の物音に耳を傾ける。 たとえば旅に出た時、その異国性を最も鋭敏に感じ取るのは、他でもない音によることが多い。視覚や味覚、嗅覚や皮膚感覚、そういった他のあらゆる感覚が辿り着けない何かが、聴覚にはあるような気がする。 洞窟内の音に耳を傾けていると、そこには不確かながらも一定の法則とリズムがあることに気づく。それをつかむことで、身体が徐々に空間に馴染み、平衡感覚を取り戻していく。 耳元でかすかな音がした。 それはとてもささやかで、はかない音だったけれど、ようやく掴みかけた平衡感覚をわずかに乱す不協和音。 眼を開け、首を巡らす。ぬるぬると光る岩肌で、何か小さいものが蠢いた。顔を近づけると、五センチにも満たない奇妙な形の虫がいた。体は白く----というか半透明で、洞内の光を体内にとどめ、わずかに発光している。 外界の光が届かない洞窟の中で、恐らくは聴覚と嗅覚を極端に発達させ生きている洞窟内生物の一種。無色透明のその生命体が世界にその存在を示す証拠は、さっき耳にしたわずばかりの音だけ。 いつの間にか、その虫はいなくなっていた。あるいはまだその場にいたのかもしれないが、いずれにしても僕にはもう見えなかった。 洞窟の中を歩いていると、巨大な生物の胎内に迷い込んでしまったような、そんな錯覚を抱く。特撮映画に出てくるカタツムリの化け物の胃袋とか。 間断なく響く水の音に押し出されるように、岩肌の隙間から洞窟の外に出た。 (2005年3月20日発行『TALEMARKETvol.21』「始源の記憶」より) |
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