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地球に触れている人達と出会う旅13


広島県広島市








大根男の大根

 その名を「笹木三月子」という。27年前、広島市安佐南区の長楽寺という集落に住む一人の農家が、足かけ十四年の歳月をかけて作り上げた大根である。
 幻の大根----そんな風に呼ばれている。
 今をさかのぼること40年余、1969年。笹木憲治さんは当時31歳だった。稲刈り後の水田を眺め、こんな風に思った。
「田植えまでの間、遊んだままになっとるこの田んぼを、何とか利用できんもんじゃろうか」
 大根は普通、冬に穫れる野菜だが、春先に収穫期を迎える「三月子」という品種がある。これを植えてみたらどうだろう。
 しかし、水田は通常の畑と異なり、土層が浅くできている。三月子は細長い形状なので、土中で生長するにつれ、すぐに硬い地盤にぶつかり曲がってしまう。
 憲治さんが思いついたのは、丸い形をした大根と交配させることだった。
 しかし、バイオテクノロジーなどない時代の話だ。ひたすら自然交配を繰り返すだけ。囲いの中で大根を育て、風が花粉を運ぶのを、ただ待ち続ける。むろん、機械だってない。
「ビール瓶で実を叩いて、種を取り出すんですよ。毎年夏になると玄関先でやっとるもんだから、周りから『大根男』なんて呼ばれておりました」
 妻のフジ子さん(70)はそう言って笑う。目尻の皺がほころぶ。
 憲治さんの根気強さは、まさに「大根男」の称号を受けるにふさわしいものだった。
 新種が完成したのは、実に14年後の春だった。
 耐寒性が強く、他の大根が少ない初春に取れる三月子と、丸い形状、緻密な肉質が特徴の聖護院大根を交配してできたその新たな大根は、大根男の名を冠して、「笹木三月子」の名前で種苗登録された。
 1980年のことである。

朝市の始まり

 甘くて堅い----一言で言うなら、これが笹木三月子の特徴かもしれない。肉質は緻密で、きめが細かく、水分が極端に少ない。ということは、煮崩れしないということでもある。おでんやふろふきにして長時間煮込んでも、その形が崩れることはない。生で食べると、しゃっきりしゃりしゃりと、歯ごたえが実によい。加えて、野菜そのものの味が濃い。なるほど大根とはこういう味であると、そう感じさせる。
「天ぷらや刺身にしてもおいしいんですよ」
 坂本尚子さん(69)はそう話す。農家の主婦で構成する朝市グループ「近菜高長朝市出荷組合」の代表を務めている。
 大根の天ぷらに大根の刺身とは、何とも食指が動くメニューだ。よくよく考えれば、刺身というのは何てことはない、サラダなのだが、ものは言いようなのである。
「昔はあちこちの農家で作っとったんだけど、最近はすっかり見んようになっておりましてねえ」
 坂本さんが言う。
 ここでもう一つの物語。高取地区と長楽寺地区の農家主婦が集まり、朝市を始めたのは99年のことだった。
 昨今、朝市や直売所、ファーマーズマーケットのたぐいは、全国各地どこにでもある。雨後の竹の子のように増え続け、淘汰の時を迎えているとすら言える。そんな中にあって、地方都市で新たな朝市を始めるというのは、戦略あってのものなのか、それとも単に無謀なのか----果たして坂本さん達は前者だった。
「よそにはない特産品を作って売り出そう」----メンバー同志、幾度も話し合いを重ねた。ふと俎上に載ったのが、笹木三月子のことだった。ふっくら丸く愛らしい形、甘くて緻密なその味を、誰もが覚えていた。
 しかし、そのときすでに、作ってる人はいなかった。
 そして話は再び大根へと帰る。

ふたりの大根

 笹木三月子が種苗登録を果たした80年代当時は、地域でも栽培を始める人が多かった。その頃、幼少時代を過ごした人の中には、大根といえば笹木三月子と思う人だっていた。
 だが、市場は青首大根が主流だった。韓国産の安い大根も大量に出回るようになった。
 そんな中にあって、笹木三月子は次第にその数を減らしていく。
 時を同じくするように、憲治さんが病に倒れたのは、九三年十一月のことだった。
 アルツハイマーが進行していた。
 フジ子さんの介護生活が始まった。
「痴呆が進んで、テレビなんか何度も壊しましたよ。もっとも、テレビを観る暇もない十年間でしたけど……」
 フジ子さんはそう言って下を向き、所在なさげに両手をいじった。
 病に倒れてなお、憲治さんは笹木三月子のことを忘れなかったという。たとえ知人や家族のことを忘れてしまっても、軒先の柿が色づけば大根の種蒔きを思い、鶯が鳴き始めれば、実りを気にした。
 そんな姿がいたたまれなかったのだろうか。家事に追われ、介護に疲れ果て、それでもフジ子さんは毎年、大根の種を蒔き続けた。春、小さな畑で収穫が上がると、病床の夫に大好きなおでんを作って、食べさせてやった。
「ずうっと一緒にやってきましたからねえ。種まきも土寄せも収穫も種採りも…?…?ずうっと一緒にやってきましたからねぇ……」
 呟くようにそう言ったフジ子さんの声は小さくて、よく聞き取れなかった。
 ずうっとふたり、一緒にやってきた大根作りを、一人で畑に出るようになって7年後。2000年1月29日に、憲治さんは亡くなった。70歳だった。

幻が夢に変わる時

 憲治さんが亡くなって半年ほど過ぎた初夏のとある日。坂本尚子さんがフジ子さんのもとを訪ねてきた。
 笹木三月子の種があったら、分けてほしい----。
 フジ子さんにとっては、寝耳に水の出来事だった。この十年間というもの、畑の様子やその日の作業について、病床の夫に報告しない日はなかった。寝室から仏間へ報告する場所は変わっても、フジ子さんの日課は変わらなかった。しかしそれも、小さな畑で一人細々と作り続けているだけのこと。
 夫が残した幻の大根に、新たな人々の夢が託される----フジ子さんに断る理由などなかった。種はもちろんのこと、憲治さんが日夜研究を続けた栽培記録などの資料も、蔵から引っ張り出して提供した。
 坂本さんの他、5人の生産者がそれぞれの畑で栽培を始めたのは、その年の秋のこと。作ってみると、そうたやすいものではなかったと、坂本さんは振り返る。
 肥料の量やタイミング、栽培管理がむずかしく、ひび割れなどが出やすい。最も頭を悩ませたのは、その辺にある青首大根と交配して、いともたやすく普通の大根になってしまうことだった。
 それでも4年目をむかえた今年は、ようやく笹木三月子らしい大根が多く取れるようになった。2月には、朝市の会場で「大根祭り」も開いた。
「言い出したら聞かん人でしたからねえ。頑固一徹ゆうんかねえ。もっとお金になることせえと、いろんな人から言われよったけど、おかゆ食うても道を曲げん人でした」
 憲治さんの人柄を、フジ子さんはそんな風に語る。
 今、毎週土曜日に開かれている朝市では、春先になると幻の大根を目当てにした客が、引きも切らない。
 そこでは、笹木三月子はこんな風にも呼ばれている。
 春を呼ぶ大根。

 フジ子さんには、一つだけ残念なことがある。憲治さんが、あと少し、長生きをしてくれたら----。
 でも、きっと彼は空の上から、にこにこしながら朝市とか畑とか、もちろんフジ子さんのことも、ずうっと見ているに違いない。

(2004年4月20日発行『TALEMARKETvol.16』より)





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