Meet Earth
地球に触れている人達と出会う旅12


徳島県新野町








 この日、列島に春一番が吹き抜けた。ビニールハウスの扉を開けると、外界に放たれた鮮烈な香りは、南風のひと吹きで流れ飛んだ。
 世に「春の香り」というのはさまざまあるが、これもまたその一つだろう。
 蕗は、山葵などと同じように、数少ない日本原産の野菜である。全国の山野に自生し、春の訪れとともに蕗の薹(ふきのとう)が顔を出す。当たり前だが、蕗の薹は蕗の花。蕗の清らかな香りが万人に春を感じさせるのは、この蕗の薹の香りからかもしれない。
 真っ直ぐ伸びた茎の根元にさくりと鎌の刃が入ると、茎の真ん中に空いた穴から大量の水が流れ落ちた。
「きれいな水と空気があるから、ええ蕗ができる」
 徳永忠義さん(59)が言った。町内を流れる桑野川は、天然記念物のオヤニラミという魚が生息するほど、澄んでいて清冽だ。この水の恵みを受けて育った新野町の蕗は、「日本で一番価格が高い蕗」といわれている。
 言わずとしれた春の商材だが、昨今はビニールハウスの普及によって、真夏を除くほぼ年中出荷されている。一つの地下茎から2〜3回の収穫が可能で、新野町では11月から翌年の六月頃まで栽培されているが、農家は時期によって一番(11月〜年内)、二番(2〜3月)、三番(4〜6月)の蕗と呼んだりする。
 新野町の蕗が日本一の高値をつけるのは、全国的にもっとも品薄となる「二番」の時期。
「10月半ばに植えつければ、ちょうどええ時期に出せるんじゃけどなあ」
 徳永さんが言う。しかし今年は、稼ぎ頭の二番が過去に例を見ない不作だそうだ。昨年の9〜11月が、いつになく高温だったせいだという。
「人間の思い通りにならんところが、この仕事のおもしろいところじゃけどねえ」
 そんなふうに話すのは、徳永さんの中学校時代の同級生、乾和雄さん(59)である。長年勤めた会社を定年退職した後、三年前から蕗を作っている。
 かつて徳永さんは、六人の有志とともにこの町で蕗作りを始めた。1980年のことである。
 特殊な野菜であり、栽培法も全く確立されていなかった。愛知や大阪の先進地を訪ね、貪欲に技術と知識を習得した。蕗には雄株と雌株があるが、栽培種はすべて雌株で受粉能力がない。 そこで、農家が個々に地下茎の株分けをし、毎年増やしていくわけだが、そのやり方すらも当時は手探りだった。
「一億円の売り上げ目指して頑張っとるけど、なかなか届かんのじゃ」(徳永さん)
 そうは言うものの、黎明期から20年余を経て、今や新野町は全国の蕗産地が毎年のように視察に訪れるほど知られるようになった。その中には、かつて徳永さんたちが頻繁に通った「先進地」も含まれる。
 現在の販売高は7000万円。目標に達するには、
「あと二、三人は新しい人が入ってくれんとなあ」
 そんな中にあって、かつての悪ガキ仲間が再び集って蕗を作り始めたことは、何よりも心強い。
「昔の仲間達と酒を飲みながら、思い出話やなしに蕗の話で盛り上がる。これはほんまにおもろい」
 乾さんはそう話す。
「一人でやることは限度が知れとるけど、それが二人、三人になると天井が高うなるよねえ」
 徳永さんの妻・一恵さん(59)が言った。
 実は彼女もまた、徳永さんや乾さんとは中学校の同級生なのである。
「人の仕事はよう見とかなあかん。一年一年が初心者じゃけん、わしだって乾とおんなじじゃ。作りもんっちゅうのはなんでもそうなんちゃうか」
 24年のキャリアをもつ徳永さんは、そう語る。
 12のころから互いを知る、気のおけない仲間達。進学、就職、結婚と、それぞれ進んだ道は異なっても、ぐるり回ってたどりついたその場所には、一本の蕗があった。

(2004年3月16日発行『TALEMARKETvol.15』より)





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