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地球に触れている人達と出会う旅10


広島県広島市








広島という名の野菜

 古今東西、都道府県の名をそのまま冠した野菜というのも、珍しい。
 その名を「広島菜」という。
 九州の高菜漬け、信州の野沢菜漬けと並ぶ「日本三大菜漬け」の一つとも言われている、広島菜漬けの食材である。
 アブラナ科に属し、そのルーツはハクサイの一種だ、いや京菜の改良種だろうなどと、研究者の間でかつて物議をかもしたことがある。
 どうあれ、大きくて肉厚、鮮やかな緑色をしたその葉肉は、固いのに多汁質(水分含有率は九五パーセント以上)。これがひとたび漬け物になると、しゃっきりしゃりしゃりした歯切れのよさに、ぴりっとした辛み、独特の香り、そして口の中にあふれる汁気がえもいわれず、それだけで丼飯一杯は軽くいける秀逸の「お新香」へと早変わりする。

 広島菜の「広島」とは、県名から来ているものか、それとも市の名前が由来なのか、今ひとつ定かではないが、産地はもっぱら広島市内に集中している。
 ともあれ、広島菜というくらいだから市内もしくは県内ならどこでも作られるのだろうと思いきや、実はそんなことはない。たとえば最も産出量が多い広島市の安佐南区だけを見ても、
「古市の中筋はいい、東野はだめ、川内の中でも宮の下はいいけど上はだめ」(いずれも区内の地名)
 そんな会話が農家の間ではごく当たり前に交わされるほど、土地・土質を選ぶ作物である。
 そんな広島市内にあって、「広島菜のふるさと」と呼ばれる生え抜きの集落がある。
 安佐南区川内。旧地名を「下温井」といい、古くから土質、水はけともに広島菜を育てるには最適といわれた土地である。耕土は深い沖積砂壌土。この土でないと、広島菜特有の辛味が出なく、歯切れのよい柔らかな繊維質の葉ができないそうだ。

「収穫の直前にぐうっと寒うなって、葉が一遍か二遍、霜に当たるのがええんじゃ。そうすると漬け込んだときに甘みが増して、漬け上がりの香りも抜群になるけんのう」
 R祖さん(74)がそう言った。
 川内地区で五四年間、一年たりとも休むことなく広島菜を作り続けてきた人物である。この野菜のことについておよそ知らぬことはないと、自他ともに認める名人。
「ここが広島菜のふるさとっちゅう所以はな」
 名人が言う。
 今をさかのぼること八百年余、平安朝末期に中国から持ち込まれた「京菜」が、広島菜のルーツだという説がある。当時、安芸守(現在の広島地方)に任ぜられていた平清盛が、この漬け物を好んで食膳に供したという言い伝えも残っている。
 明治時代に入り、かつての川内村(現在の川内地区)のとある農家が、京都から持ち帰った観音寺ハクサイと、この京菜を交配して現在の広島菜の原型を作った。
 以来百三十年以上、ここでは途切れることなく広島菜が栽培されてきた。文字通り、広島菜のルーツを形作った郷土がここ川内なのだと、勝さんは誇らしげに言うのだった。
 ちなみに、明治時代に品種交配を行ったその「とある農家」というのは----
「わしのひいじいさんじゃ」

二枚の勝因

 川内が「広島菜のふるさと」と呼ばれる理由は、もう一つある。市内の他の地区で栽培される広島菜の種のほとんどが、この地で採種されているのだ。
 かつて広島菜の種は、門外不出の秘宝だった。
「それぞれの家で、親から子、子から孫へと代々伝えられてきた種があってのう。絶対によそには出さんかったもんじゃわい」 
 R祖さんが語る通り、農家にとって種というのは命にも等しい。とはいうものの、いつまでたっても「門外不出」では、さすがに産地として立ちゆかなくなるのが目に見えている。
 せっかくの貴重な野菜が、失われかけた時があった。
 1950年代半ば、危機感を抱いた勝さん達は、それまで各自が勝手ばらばらに作っていた広島菜の品種を統一することにした。各農家がそれぞれ最高と自負する広島菜の株を一つずつ持ち寄り、品評会にかけて種の選抜をしたのである。
 いうなれば、「広島菜コンテスト」の開催。
 しかしこれが難渋した。
「みんな我がとこの菜っ葉が一番じゃ思うとるけんのう。誰一人として譲らんのですわ」
 当時を思い返し、R祖さんが苦笑する。
 葉の色や形はもちろんのこと、切り口の大きさや葉脈の曲線の美しさに至るまで、事細かに審査を重ね、最終的に二点が残った。
 しかしこの二つ、どこをどう見ても、甲乙つけがたいのである。
「どことっても、こりゃあ勝負つかんで」
「けど、1位と2位決めないかんしなあ」
 みんな困った。当事者の二人は互いにそっぽを向いて、譲る気配などまるでない。
「しゃあない、真っ二つに切って葉の数をかぞえよう」
 と、こういうことになった。
 これで一件落着かと思いきや、そこからがさらに大変である。株の内側、爪の先ほどの小さい葉に至るまでの一枚一枚を、担当者がピンセットでつまみながら数え上げる羽目になった。
 みなが固唾を飲んで見守る中、数えに数えて最後は73枚あった方が、2枚の僅差で勝利。
 以来、毎年開催される品評会の最終決定では、葉の枚数が重要な決め手になったのだと、勝さんは誇らしげに言うのだった。
 ちなみに、そのとき勝利した広島菜の優良株というのは----
「わしのじゃ」

働く人 喋る人

 畑では妻のA子さん(69)が、収穫した広島菜を「てねそ」と呼ばれるひもで結束していた。
 広島菜一株の重さは、2キロ近くにもなる。それを五株一くくりにして、膝でぎゅっと押さえて締め、手早く結わえていく。
 縛る位置が悪いと、持ち上げたときにすっぽり抜けてしまう。強く縛ると葉が傷むし、弱くては葉の水分が抜けた時にゆるんでしまう----地元の人たちが「てねる」と呼ぶこの結束作業、一見、何なくこなしているようでかなり難しく、最近はこれがうまくできないがためにコンテナで出荷する人もいるそうだ。
 瑛子さんが黙々と働く横で、勝さんの回想は続く。
「池田さん(首相)の頃がいちばん景気良かったのう」
 当時、広島菜漬けは京阪神で人気が高く、送れば送るだけ大阪の漬け物業者が売りさばいてくれたという。さすが大阪商人、産地もずいぶん肥えたことだろうと思いきや、
「いやぁ〜、奴らの金払いの悪さときたら、えらい手焼いたもんじゃて」
 渋い顔でそう言う。
「これから集金に行きます」と広島から電話を入れると、「はいはいわかりました」と返事はすこぶる良い。ところがいざ訪ねてみると、店舗はもぬけの殻----なんてことがよくあったそうだ。送金の約束をしておいて、2年2年と送ってこないこともざらにあったと言う。
「こりゃあ一筋縄ではいかんのう」----みんなで集まり、さんざん知恵をしぼったあげく、あることを思いついた。
「農家の若いモンで、でかい体つきの男四、五人連れ立ってな、まずは大阪まで行くわけよ。で、駅前の交番から電話かけるんじゃ。『川内の農協でございますが、広島菜の代金をいただきたいのですが』。そうすると向こうはてっきり広島からかけとる思うけん、『はいはい払います』と、えらい調子がええ。で、こちらは電話を切ったらそのまま交番で住所調べて、タクシーで乗り付けるわけじゃ。そりゃ相手はびっくりよ。こっちは一応、コワモテ揃えとるけん、慌てて代金払いおったで」
 勝さんはそう言って、愉快そうに笑うのだった。
 ちなみに、この時はるばる大阪まで取り立てに出かけた「屈強な若者」というのは、
「あ、それはわしじゃないけんね」
 かかか、とのけぞって笑うR祖さんを尻目に----
 向こうではA子さんが、縛り終えた広島菜を黙々とトラックに積み込んでいた。

(2003年12月26日発行『TALEMARKETvol.12』より)







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