Meet Earth
地球に触れている人達と出会う旅02


岡山県真鍋島








「花を作ろうと思っているんだ」
映画『瀬戸内少年野球団』で、郷ひろみ演じる主人公の正夫が、妻の駒子(夏目雅子)にそう話すシーンがある。
終戦後、瀬戸内海の島に復員した主人公が、農業委員会の書記の仕事を充てられ、思いを語る場面だ。
「こんな小さな島でですか?」
駒子がたずねる。
「うん。調べてみたら、この島は東京の八丈島と年間の平均気温がほとんど変わらないんだよ」
笑顔でそう言う正夫に、駒子は、
「冬でも南側の斜面は、シャツ一枚で過ごせますものね」
そんなふうに言う。
実はこのシーンは、阿久悠氏による同名の原作にはない。そもそも、花を作るという設定すらないのだ。
脚本家の田村猛さんが、シナリオ取材のためにロケ地となった岡山県の真鍋島を訪れた際、島の人に聞いた実話を挿入したのである。
真鍋島渡航

「夕べは恵みの雨でした」
ラジオが言っていた。前の日の夜、尾道の山中で起きた山火事を、消してくれたのだという。
笠岡の港から、船に乗った。
神島、白石島、北木島、真鍋島、佐柳島と巡航する小型客船は、瀬戸内海の岡山県と香川県の間に連なる笠岡諸島を行き交う、唯一の交通手段だ。
漁船の上に箱をかぶせたような小さな船に乗り込むと、食料品や生活雑貨をビニール袋一杯に詰め込んだ主婦や老人達が、小さな声で喋ったり、本を読んだり、船窓の外を眺めたりしていた。
雨を含んだ雲が前方にたれ込めていて、海上のそこかしこに小さい漁船が散らかっていた。
薄汚れた窓の向こうに薄ぼんやりと見えていた四国の島影は、船が進むにつれて海霧の中に消えていった。
斜め前の席では、20歳くらいの大学生が『アンネの日記・完全版』を一心に読んでいた。
北木島を通った時、港の近くに真新しくて白い校舎が見えた。
マスクをしたおじさんが1人、自転車に乗って、誰もいない校庭をぐるぐるぐるぐると回っていた。
真鍋島に着いた時には、乗客は僕を入れて4人しか乗っていなかった。

平和になれば、花が売れる

「花の島まなべへようこそ」
真鍋島の桟橋に降り立つと、そう書かれた看板に出迎えられた。
面積2・62平方キロメートル、人口397人(2002年11月末現在)。笠岡諸島の南端に位置する真鍋島は、冬でも温暖な気候を生かし、1950年代初頭から花の栽培が行われてきた。
その口火を切った人物が、島に残っているという。
他でもない、『瀬戸内少年野球団』のモデルになった夫婦だ。
農協で地図を借りて、迷路のような路地を何度も行ったり来たりしながら、ようやく教えられた家にたどり着いた。
玄関で名前を7回呼んで、8回目を呼ぼうとしたとき、お婆さんが1人、家の奥から出てきた。
片耳から補聴器が外れていて、ぴいいいいーっというけたたましい音を発していた。
耳元で大声で自己紹介をすると、奥に引っ込んでいき、一人のお爺さんを連れて戻ってきた。
 T夫さん、86歳。Y子さん、84歳。
 T夫と「正夫」、Y子と「駒子」。
二人の姿を見て、年老いた郷ひろみと夏目雅子をイメージしていた自分に気がつき、ちょっと恥ずかしくなった。
上がらせてもらい、居間のコタツに座ると、
「娘が送ってきたミカンですわ」と言って、米子さんがしなびたミカンをたくさんザルに盛って出してくれた。
時おり話が飛んだり何度も同じ話を繰り返し、4時間くらいかけてT夫さんが島の花の話をしてくれた。
終戦後、フィリピンから復員したT夫さんは、村の農業委員会に就職し、農村振興の役を負った。妻のY子さんは網元の娘で、小学校の先生をしていた(この辺は全く映画通り)。
当時、島では漁業収入が農業の3倍近くあり、引き揚げや疎開者で人口は3千人を超えていた。
漁業は、海底を根こそぎかっさらうような乱獲だった。
「こんな漁を続けとったら、すぐにだめになる。地道に畑を耕して、農業収入を上げんことには」
そう考えたT夫さんに花作りのヒントをくれたのは、島を訪れた戦友の「こんなに暖かいんなら、花を作りんさい」という言葉だった。
「花が売れるのか?」
そう訪ねると、
「世の中、平和になればなるほど売れる」
その人はそう答えた。
島では、男は漁か出稼ぎに出て現金を持ち帰り、畑で芋や麦を作るのはもっぱら女性の仕事だった。
「畑っぱたや山の斜面には自生の菊が冬でも咲いとる。これが金になるんじゃったら思うて、女衆を口説いて回ったんです」
力になってくれたのは、独身の女性や戦争で夫を亡くした未亡人だった。
が、事はそう簡単には進まなかった。
「食うもんがないときに、食えもせん花なんぞ作ってどうする」
そんな陰口をたたかれた。
ある時には村長から呼び出され、
「村の人を惑わすようなことを言わんといてくれ」
そんなふうに叱責されたこともあった。
風向きが変わったのは、最初の収穫で1アール約6千円の収入があってからだった。
米でさえ3千円の時代だった。
花の島の地歩を確かなものにしたのは、それから10年かけての地道な努力だった。
いつしか段々畑の麦の穂は、色とりどりのキンセンカやマーガレット、ナデシコ、寒菊へと変わっていった。 

道なき島の道

だが、真鍋島の成功を、周辺の島々は見逃さなかった。
笠岡諸島から、四国は香川県の塩飽諸島、荘内半島まで、花作りが一気に広まった。
気候条件は同じ、だが、灘のど真ん中にある真鍋島は海上距離がある分だけ、他の産地に比べて分が悪かった。
加えて、道の問題があった。
真鍋島には、島の北側の海岸線約1キロ程度しか、自動車が通れる道がない。あとは迷路のような細い路地、そして傾斜30〜40度はあろうかという急坂や石段の道だけなのである。
20年ほど前、島に軽トラックが通れる道を造ろうという計画が持ち上がった。
だが、「1センチ1ミリまで我が土地じゃと言い張る」島の人間の気質が妨げになって、用地買収がほとんど進まず頓挫した。
それでも当時は、みんな若かった。
20〜30キロもある花の荷を背負い、急な坂道を登り降りしていた。
5年ほど前、ミニ耕耘機が上がれるようにと、菊畑に登る急坂の片側がスロープになった。
が、老いは道よりも先に進んでいた。
「坂道が難儀で、みんなやめていきよりました」
T夫さんが言った。
「あっちの山も、こっちの山も、昔は一面の菊畑じゃったんです」
そう言って指さした山の斜面は、今はもう雑木林に埋もれていた。
後刻、笠岡市役所の人と会う機会があり、真鍋島の道路の話をしてみたら、
「あんな年寄りばっかりの島に今さら道なんぞ造って、何のメリットあります?」
20年前に造っておきゃ良かったんだよ、と言いたげな口振りだった。

新しい花

「花の販売高が1億円を超していた時代もあるんです」
農協を訪ねたら、支所長であるHさんがそう言った。60〜70年代の全盛期、島の生産者は300人近くを数えた。それが2001年の数字を見てみると、21人、販売高は500万円である。
生産者の平均年齢は、70歳をとっくに越えている。
新しい作目を導入するには、地理的な不利さをカバーして商品作物になりうる希少性と、なにより軽労働が必須条件だった。
「食用菊なら、今までの菊作りの経験と技術を生かせると思ったんです」(Hさん)
笠岡市の農業改良普及センターに相談したり、各地から資料を取り寄せたりした。
品種の研究を重ね、土壌や気候の適性を検討し、2000年に自費で食用菊の苗200本を購入した。
「ものは試しでいいですから、どうか作って下さい」
生産者一軒一軒を回って頼み込み、苗を配った。その中の一人、T田S之さん(67)は、
「もうキク作りはやめようか思うとったけどな、熱意に押されてやってみたんじゃ」
始めてみると、通常の寒小菊に比べて格段に省力化できることがわかった。摘芯作業がいらず、丈を伸ばす必要もない。観賞菊だと3〜4日、目を離しただけで虫に食われて全滅することもあるが、食用菊ははるかに病虫害に強かった。
なによりも収穫、運搬が楽だとT田さんは喜ぶ。
「寒小菊は茎ごと刈るから運搬がたいへんじゃったけど、食用菊は花だけ取ればええ」
課題は、いかにして販路を確保し、広めていくかだった。
菊を食べる習慣は、東北地方や関東方面では定着しているものの、中国四国地方ではなじみが薄い。
まずは食用菊そのものを知ってもらわなければならなかった。
Hさんは、友人とともに「パワフル」という島起こしグループを結成。毎年島を訪れる都会からの観光客に着目した。それぞれのアドレスを教えてもらい、「バーチャル島民」になってもらおうと試みた。都市住民を中心に、その数は現在まで100人を超えている。毎年冬には、「真鍋島体験ツアー」を開催した。希望者には菊の苗を配布し、それぞれの地元で「まなべの花」を植えてもらったりもした。
が、いかんせん栽培量が少ないので、市場に出荷するには至らず、今は自分たちの手で梱包したものを観光客に配ったり、イベントなどに出品したりしている。
「悠長なことはやっておれんのですよ。何せ毎年辞めていくのでね」
そう語るHさんは、まるで島に寄せる老いの波と競走しているみたいだった。
「いつかは花いっぱいの島にしてみせるからね」
映画『瀬戸内少年野球団』のラストシーン。主人公の正夫が、島を去る少女にそう言って赤い花を手渡す場面がある。
今、それは黄色い食用菊へと姿を代え、花の島で、小さいけれど新しい蕾を再び開こうとしている。

(2004年2月1日発行『TALEMARKET vol.02』「花の島を再び」より)







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