after glow
編集後記16











 脳の奥の方の、裏側の隅っこ----識閾(しきいき)の向こう側から、時折、何の前触れもなく甦る「シーン」があります。全容は漠として朧気ながら、ディテイルは恐ろしくリアルで微に入っている。
 おそらくそれは、一般に"フラッシュバック"と呼ばれるものなのかもしれませんが、僕の場合、グッドもバッドも含めて、古馴染みとなったそんな光景が、幾つかあります。

 湯気で曇った窓から差し込む、朝の陽。立ち昇る湯煙。微かに聴こえる音楽。湯舟に滴り落ちる水滴。硫黄と、檜の香り。
 誰もいない湯治場の、朝の風景。
 幼い頃、毎年春になると、家族で近くの温泉へ旅行に出かけていた時代がありました。恐らくはその時、刻まれた記憶の断片のようです。

 識閾の向こう側にあるものとは、これまで僕は正面切って向き合ったことがありませんでした。不意にそれが襲って来た時には、首をすくめ、ただじっと通り過ぎるのを待つばかりでした(以前、沖縄の牧場でダチョウの取材をしていた時、唐突に鳴り響いた雷を恐れてダチョウ達がじっとうずくまる姿には、妙なシンパシーを感じたものです)。

 連載小説『マリオットの盲点』を書き始めてから、記憶の奥底の様々なシーンと向き合う機会が、多くなりました。これは時に楽しい作業であり、そして非常に苦しいものでもあります。
 途中で放り出し、遁走してしまいたくもなります。
 それでも、これまで避けてきた「向こう側」にきちんと足を踏み入れることは、今の僕にとっては必要な作業であり、時期を得たことなのだろうと、思います。

 4月から、「仕事」環境が大きく替わりました(ここで言う「仕事」とは、生活収入のためのそれであり、テルマを始めとする僕自身のライフワークとは一線を画します)。この機会に、自身の「内なる向こう側」を、改めて----というよりは初めて、正面から見据えてみようと思います。

 偉大なる作家にして編集者、翻訳家でもある北山耕平さんから、4月初旬にいただいたメールには、こんなメッセージが寄せられていました。

時間に流されてはだめだよ。
いくらたっぷりあるからといって。
流されていると、
人は見えないものの
奴隷にされてしまう。

(2004年4月20日発行「TALEMARKET vol.16』編集後記より)






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